オミクロン株ですか、、、
いい加減にしてほしいわ。
さて続き。
美濃金山城をあとに舞台は山県市に変わります。
ここ山県市には光秀生存説があることは前回に書いた通りです。
その伝説のある桔梗塚に行きますよ。
無料臨時駐車場がありました。
私たち以外にも1組ほど見学者がおられました。
産湯の井戸。

考えちゃだめだ。感じろ。。
桔梗橋。

すべてが桔梗の紋。光秀ブームは衰えることを知らない。
この階段の奥にあります。

中央の五輪塔ではないほうだったかと。うる覚え。

光秀がなぜに荒深小五郎と名を変えこの地に移り住んだのかは
ミツロウ兄さんの記事を参照してね。
光秀がここで生まれどういったいきさつで明智城主である明智光綱の養子になったのかなど、納得させられるような背景もうかがえます。そのエピソードが本当かどうかは問題ではなく、違うだろうけどもしかして本当だったのかもしれない、、、
そんなところに歴史浪漫を感じるのですよね。
生存説関連は、例えば義経や秀頼などもありますが、そのすべてはあくまで「伝」というだけで、無論この地の光秀ももちろん「伝」。しかしたとえ光秀本人ではなかったとしても光秀の縁者が流れ着いた可能性は大いにあるとは思われます。
事実、桔梗塚に向かうまでの階段両脇の柵石柱には寄贈者(出資者!?)として荒深姓の方が何名も書かれてありました。
その方たちにとっては紛れもなき真実であります。
この後は一尾根向こうにある光秀家臣の明智孫十郎の墓に。
そもそも恩田性だったそうで恩田家のお墓になかに明智孫十郎のお墓もあったのですが、学が無きため墓石の文字がよくわからなくて、どれが孫十郎のお墓までは判別不能。多分真ん中のものと思われます。
写真撮ったと思うのですがなかったです(>_<)
これについても
ミツロウ兄さんの記事を参照してくださいね。

ちなみにこのお地蔵さんではない。この画像に移ってない右奥に恩田家の墓所があります。
明智孫十郎はどうやらこの地の出身なのかな。
光秀が山崎の戦で破れたあと、生まれ故郷でもあり、さらに信頼する家臣でもあった孫十郎の故郷でもあったこの地に逃れてきたというのも納得させられる部分でもありますね。
では本日の山部門のメインイベント。
大桑城(古城山)に行きますよ。
当初は桔梗塚から歩いていこうかなとも思ったのですが、道中ただの林道やら県道を歩くのはなんだかと思い。前回の京都篇は山崎から京都までもできる限り京街道を歩くという名目もあったからね。
今回はやっぱし車で移動です。
大桑城に行く前に周辺のスポットだけ押さえます。
六万墓。

道三と頼芸の戦いでの戦死者を集め弔った場所とされています。
千人塚。

こちらも戦死者を弔うために建てられたものらしい。
むむむ。

画像に移っている何かのほうもむしろ気になった。
戦で活躍した頼芸の式神なのか、、、という設定だったら映画やゲームになるな(笑)
四国掘り。

大桑城の最終防衛ラインと思われます。
尾張、伊勢、越前、近江の4つの国の加勢を受けて築いたと伝えられているそうです。
ちなみに先の明智孫十郎は、道三方が築いた四国山城攻めで戦功をあげたそうですよ。
そちらの城の名も四国山城なので、そちらも4国の加勢があってできた城だったりして。四国山城跡は今は四国山香りの森公園となっているそうで、大桑城から大して離れていません。
なのでこの四国掘りは実は道三方が築いた大桑城攻めの最前線の野戦陣地跡だったら面白いなと妄想。
堀の向きが大桑城と反対だから違うか(笑)
四国掘りや四国山城の呼び名も、土岐頼芸側の戦意喪失のためあえて、道三が各国の援軍も従えて攻めてきた、こちら側はこれだけの国に支持されているといったことを示すような策略だったとか。逆もしかりね。これも妄想です(`ω´)グフフ
では大桑城に。
途中の綺麗なトイレに入ろうとすると。
援軍!?なのか。この老将軍。地元の歴史研究家の方のようで、名刺もいただきました。
ここではT氏とします。
怪しい福井ナンバーの車が大桑の史跡をめぐっていたのを索敵してたらしい。
まあ今でいう、、、
ストーカーか(゚д゚)!まあそれはいいのですが(笑)
きっと歴史好きな輩と思って声をかけてくれたのでしょう。
大桑城の説明および、T氏の大桑城についての見解を色々お話ししてくれました。
登山口まで道案内をしてくれましたよ。

ここは登山口より僅かばかりはずれた場所の堀切跡(T氏談)
この堀切は地元教育委員会(たしか)では堀切として扱わず、切通し(道)という判断だそうです。T氏によればそれはありえないとのこと。
地図上では。

赤丸の地点。
昔切通として使われているのでれば、緑→のほうにある林道との通路となるのかな。T氏によれば切通しとてわざわざこれだけのために、この尾根を切らずその上を歩いて横切るはずだとのこと。私の立っている場所の後ろは2mはないくらいの段差になっており、切通としてなら、そうならず道路が繋がるはず。切通の反対が切ったように道が無いのはおかしい。
という見解です。
地元教育委員会他ではここの堀切はスルーされており、特に案内板などはないです。
なるほど~フィールドワークって大事。楽しい。
T氏の説か正しいか、教育委員会が正しいかは別として現地現物を見ることで自ら妄想する楽しさがあります。
T氏とはここでお別れ、色々貴重なお話を聞けて面白かったです。
さあ上りますよ。
この堀切!?部あたりから尾根を直登。その後トラバースなんかも含め、基本尾根を忠実に上っていく感じで山頂を目指します。途中最初に案内のあった堀切!?以外に防御力を発揮する遺構がなく、山頂までの行程の3分の2くらいまでは何もなかった気がする。
大桑城は北面は急峻な感じで基本防御力を発揮する遺構は南面や西面に多い。
北面は岩門のあたり近くまでは何もないと仮定すると、最初の堀切!?はやっぱり切通し!?なんかなとも思う。
伝「岩門」のあたりのいい画像がなかったので残念なのですが、この岩門が一乗谷の巨石を模していると思われ、、大桑城は一乗谷の影響を受けて作られた山城だと言われている根拠の一つなんだとか。なるほど~。
伝岩門を越えたあたりから、堀切や廓なんかがバンバン現れます。直近の調査では天守直下の廓の台所と言われている場所から庭園の跡が見つかったそうです。池の跡もあったらしい。
凡庸(と言われている、あくまで私のイメージ)の土岐頼芸が道三に政務を任せ、ここ大桑を贅沢な別荘や隠居場とし日々のほほんと贅沢の限りを尽くしていたのかもしれない。
それも道三の策略とも気が付かず、、、
という妄想(`ω´)グフフ
ここで。
大桑城はもっと簡単に東側からも上れますが、一応山登りをする身として、健脚コースから上っています。城というより古城山山行という建前がありますんで<(`^´)>
でも遺構をあまなく見ようと思ったら健脚コースからがおすすめですよ。
到着v( ̄Д ̄)v イエイ

二上~文殊山くらいのボリュームはありますよ。
それの少し急登版かなってところ。
殿ぉぉお~~。。
っていつものノリで(爆)
ミニチュア天守もあるんですよ。

クライミングの成果を発揮して城攻め一番乗り(笑)
この天守は昔あった大河「国盗り物語」の時にヘリで運んだものらしい。T氏が教えてくれました。
頼芸が逃げたときに、土岐氏家宝の金鶏を隠した井戸も見たしあとは下山するのみ。
時間が押して16時ごろだったこともあり、念のため暗くなってもより安全なように、来た道ではなく、反対のゆるゆる林道周回にて車まで戻ることにしましたよ。
林道なら暗くなってもあまり怖くないしね^^d
が(-_-;)
林道口もどり。
あとは林道をひたすら歩いて駐車場に戻るつもりが、まさかの、、、
ここどこ何!?
全く逆方向に歩いてしまっており、駐車場とは真反対の尾根向こうの県道にてしまった(;´д`)トホホ…
真っ暗よすでに。
暗い林道をまた上って戻るより(さっき暗くなっても林道なら怖くないって言ったじゃんていう突込みは受付不可で)安全な生活道路を歩きましょうよとなりました。
都合12km程のロードが追加されます(涙)
ま、これもありよね。
ゆるゆる歴旅だったので、少し心拍を上げろという天命と常に前しか向かないでおくわ(爆)
暗くても兄さんと一緒だし、楽しいウォーキング一部ランもあり。

いい運動になりました。
〆は山県さくらちゃんと一緒に。

真っ暗な道路で知らない人が見ると怪しい不審者にしか見えないよ、ミツロウ兄さん(汗)
きゃは♪

まあ。
こんな感じです(笑)
今回もまさかの激しい撤退戦。しかも夜戦を乗り越えた自称明智の残党2名はなんとか漆黒の馬(マイクロスビーね)にまたがり、越前の国に帰還するのであった。
今回も楽しい歴旅。
お付き合いただいたミツロウ兄さんには感謝です。
またツギもよろしくお願いしますm(__)m
ではまた~。
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