福井県にドクターヘリが整備されたそうです。
登山などの事故にも対応してもらえるものなのでしょうかね。
海外なんか自費になったりする場合が多いので、保険には入っておくべきです。私も当然山岳保険に加入済です。
保険に入ったから良いという訳では勿論なく、基本お世話になることが無いよう、スキル体力判断力を磨き上げていこうと思います。
とりあえず良いニュースですね^^
さて。
この前旧北陸道を福井から今庄まで歩いたわけですが、湯尾峠を歩いていないという失態をしてしまったので、ここは外せないと思い歩いてきましたよ。
湯尾駅出発。ではいってみよ~。

湯尾の集落を歩いて、前回も見たこの看板。

山王太鼓の後ろの日吉神社が気になって。
歩いているとすぐに分かったのでお立ち寄り。

鉄筋コンクリートの立派な神社でした。ここで太鼓の演舞なんかがあるのかな!?
南北朝時代、杣山を治めていた瓜生一族のころとても繁栄していたそうです。
神社を後にして。
旧街道を歩きます。
前回はこの画像を左に進みました。

今日はまっすぐ。
道路真正面、鞍部になっているところが湯尾峠と思われます。
ビンゴ。

湯尾神社をすぎてすぐ。
明治天皇の巡幸の際の休憩された場所がありました。
このまま道なりに突入。
予想通りです。


前回湯尾の集落内を歩いてしまい、三ヵ所山を迂回するように国道365を歩いてしまいました。湯尾の集落内自体も若干高低もあり、湯尾峠をその緩い集落の道程内だと思い込んでしまった私のミスです。なんとなくわざわざ山の中突入せずとも迂回(たいした差はないと思われます)したらええやない、当時も当然そうしただろうと思ってしまった。
思い込みはダメですね(>_<)
とにかくリサーチ不足もあり、いきあたりばったりもちょっと反省。
無事見つけることができて良かったです。
ではいきましょ。
峠に向かって歩き出してすぐに。

物騒な道標。
南北朝時代、南朝側として戦った瓜生一族が北朝の高師直に夜襲をかけ多大な被害を与え、そのさい討ち取った多数の首をこの池で洗ったそうです。

さらに歩きます。
馬の水飲み場。

峠ご膳井跡。

馬の水飲み場はわかりますが、これはなんでしょう。ご飯を食べるような休憩する場所だったのかな。
立派な石垣が見えてきました。

この峠は柴田勝家が改修した新峠のようで、この石垣もその時代のものなのでしょうかね。
ちなみに古峠も東に100m程離れた場所にあるそうです。そちらは源義仲が整備したとか。
湯尾峠到着。

この神社が疱瘡にご利益のある孫嫡子神社。

この脇に登山道が伸びていて、石仏があります。弘法寺八十八か所霊場のもののようです。
予定では湯尾峠を抑えたら、三ヵ所山登って、雨が降る前に杣山城跡に登って古の時代を想いつつ杣山温泉浸かって帰るつもりでしたが、まだ雨が降る午後以降に時間は間に合いそうだし、昨日は休みだったけど結果予定の板納め山スキーしなかったので体力余ってたので、吸い込まれるように尾根を上っていけるとこまで行くことにしました。
石仏の間隔が狭いので思ったより短い距離で八十八か所まわれるかも。

ゆるく上っているうちに送電線のある場所にきました。

石仏88番からはじまったので、これが52番目でした。
こちらの石仏は関係ないみたい。

このお地蔵さんの近くにありました続きの石仏は44番目。

数字とんでる。
分岐になっており、太子堂に続く道と下山方向の道。下山方向に行けば44番目なので、おそらく43.42.41、、、となると思う。それか44で止まって太子堂側に進めば数字が43.42と減っていくのかも。

ここまできたら最後まで終わらせますよ。太子堂に行きましょう。
予想通り石仏の数字は45.46.47と増えていき。
ごくらく橋。

この橋は見覚えがある。
以前にしろべさんたちと鍋倉・藤倉山周回したときのものだ。
太子堂これかな。

懐かしいな~。ただ、、、例の八十八か所の石仏の数字。51で終わり。

蛇がいてびっくり。2匹もいましたよ。
太子堂を越えたら鍋倉山の方に行くよね。記憶がこんがらがる、、、
まあこのまま鍋倉・藤倉山まで歩いて今庄から湯尾戻ってもいいか。と、いつものノリと勢いで行くことにしました。
しかし。

太子堂の後はまったく石仏もなくて。
あの山が鍋倉山かな。結構落としてまた上るのか。まあそれはいいのだけど、石仏が全くないのが気になる。いったん太子堂まで引き換えしスマホで調べてみます。
はっきりとした自分が知りたい情報はヒットしなかったのだけど、どうも鍋倉方面には石仏はない模様。そしてこの太子堂がは八十八か所霊山みたい。
ということは、先ほどの44番目からさらに下山していけば数字が減っていき1番目にたどり着けると思われます。
戻ろう。
44番目の十一面観世音から下って行くと予想通り43.42と。
これで下山までで88すべてまわれますな。
ばっちr下山までですべての石仏をまわることができました。


今庄まで結果来てしまった。
以前、しろべさんたちと鍋倉登った際はここからではなかったと思う。
さらに先から上ったのだろう。
とにかく湯尾峠に上り返そう。湯尾峠から尾根を霊山に歩いたので本来下るはずだった今庄側のルートに戻ります。もちろんあるはず。

たぶんあるっしょ。
一里塚跡。

今歩いている場所は旧街道で間違いないな。
あった。ここからだな。

石垣も見えてきました。


無事に湯尾峠に。
明治天皇の巡幸の際の休憩されたこと記す石塔もある。

芭蕉も歩いた。その句標も。

なんかみおぼえがある、、、
とりあえず三ヵ所山の方に登ろう。
湯尾城跡。


思い出した、、、
ここしろべさんたちとやっぱり来てるんだ。
そのときの記事はこちら。いろいろ思い出しました。
今庄側から湯尾峠歩いていたんだ、、、記憶っていい加減(>_<)
きっかけがないと思いだしたりしないものですね(汗)
感傷に浸りつつ。三ヵ所山行こう。そして杣山に。瓜生保の気持ちになって。
あれ杣山かな。

途中間違えて林道下山しそうになったけど気がついて戻ります。GPS様様(汗)
ここ真っ直ぐ。

最初一瞬分かりにくいけど、すぐに林道が分かります。そのまま進んでいくだけ。

林道(作業道)と並走するように登山道。

到着v( ̄Д ̄)v イエイ

この石仏の後ろに沼田場があった(>_<)
では下山しよう。
帰りは湯尾峠に行かずともそのまま下りれます。

湯尾三十三か所霊場の観音様横にでました。峠から八十八か所霊山の反対の湯尾城址からここまで、途中ちょいちょい見かけた石仏はこの湯尾三十三か所のものかもしれませんね。
駅に戻ろう。
ここにも明治天皇は来られたのですよね。

でも峠歩いて(馬車とかかも)おられるんだよな。不思議。
駅から車を走らせ杣山に。ここに来るのは3回目かな。二回目は家族全員来てます。その時は記事にしてますよ~。
ではいこう。

家族で来た時は、温泉側に下山したので、今回は温泉側から登ります。
そうそうこのはしごありましたよ。

あの時は三女が保育園児。下山でこのはしご使って。三女は一生懸命怖がらずに。私は三女を後から包みむようにもし踏み外しても支えるよう必死だったのを思い出しました。
本丸跡。

南朝側のお城だけに整備されているのかも。
しっかりした石碑です。
落城の際、瓜生保夫人や侍女がこの岩に柱をかけて飛び降りたそうです、、、
見晴らしはすごくいい。

岩からは三ヵ所山も湯尾峠もばっちり見えます。当然当時は今庄側から進軍してくる北朝軍も見えたであろうと思います、、、

瓜生保も見たのであろうか。。
下山します。
殿池。

新田義貞公の奥方である勾当内侍が一時隠れたと言われる場所。

ハートの洞穴が恋愛スポットだとか。ほんとか!?
勾当内侍がここまできたのかは不明。そのお墓を堅田にBROMPTONでポタした時見たのだが。前も来た時思ってました。一応新田義貞公が越前に赴いた際は勾当内侍は堅田において連れて行かなかった事になってたはずです。
キャンプ場がよくわからない。

無事下山。


この辺り一帯が平時に瓜生一族が住んでいた居住区のようです。
杣山も一乗谷のように山と山の間にあります。

家臣団が杣山奥地侵入を阻むよう、山間の入り口に居住していた!?ようです。のちの朝倉氏も一乗谷に本拠を置く際、もしかしたら杣山を参考にしたのかもしれませんね。
このあとは杣山温泉で汗を流し高速で帰宅しました。
とても楽しい歴史フィールドワークでした(´∀`*)ウフフ
宿題はばっちりです(*^^)v
ひとつ悲しかったことが、、、

帰りに鯖江西Pで見かけて買った五月ヶ瀬。なんか昔より小さくなってません!?
ポテチの量が昔に比べて減ったのよりもショックでした(>_<)
ま、ともかくいい休日になりました。
6月からまた特殊勤務になり平日休みが増えそうです。仕事は激務が続きますがしのぐ様にがんばります。
ではでは。
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