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浪漫自走

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歴山歩タリング!!光秀公を忍んで 美濃篇 その2

オミクロン株ですか、、、
いい加減にしてほしいわ。



さて続き。



美濃金山城をあとに舞台は山県市に変わります。
ここ山県市には光秀生存説があることは前回に書いた通りです。
その伝説のある桔梗塚に行きますよ。

無料臨時駐車場がありました。
私たち以外にも1組ほど見学者がおられました。

産湯の井戸。
20211122sPB210105.jpg
考えちゃだめだ。感じろ。。

桔梗橋。
20211122sPB210102.jpg
すべてが桔梗の紋。光秀ブームは衰えることを知らない。

この階段の奥にあります。
20211122sPB210109.jpg

中央の五輪塔ではないほうだったかと。うる覚え。
20211122sPB210112.jpg
光秀がなぜに荒深小五郎と名を変えこの地に移り住んだのかはミツロウ兄さんの記事を参照してね。

光秀がここで生まれどういったいきさつで明智城主である明智光綱の養子になったのかなど、納得させられるような背景もうかがえます。そのエピソードが本当かどうかは問題ではなく、違うだろうけどもしかして本当だったのかもしれない、、、
そんなところに歴史浪漫を感じるのですよね。
生存説関連は、例えば義経や秀頼などもありますが、そのすべてはあくまで「伝」というだけで、無論この地の光秀ももちろん「伝」。しかしたとえ光秀本人ではなかったとしても光秀の縁者が流れ着いた可能性は大いにあるとは思われます。
事実、桔梗塚に向かうまでの階段両脇の柵石柱には寄贈者(出資者!?)として荒深姓の方が何名も書かれてありました。
その方たちにとっては紛れもなき真実であります。

この後は一尾根向こうにある光秀家臣の明智孫十郎の墓に。
そもそも恩田性だったそうで恩田家のお墓になかに明智孫十郎のお墓もあったのですが、学が無きため墓石の文字がよくわからなくて、どれが孫十郎のお墓までは判別不能。多分真ん中のものと思われます。
写真撮ったと思うのですがなかったです(>_<)
これについてもミツロウ兄さんの記事を参照してくださいね。
20211122sIMG_3236.jpg
ちなみにこのお地蔵さんではない。この画像に移ってない右奥に恩田家の墓所があります。
明智孫十郎はどうやらこの地の出身なのかな。
光秀が山崎の戦で破れたあと、生まれ故郷でもあり、さらに信頼する家臣でもあった孫十郎の故郷でもあったこの地に逃れてきたというのも納得させられる部分でもありますね。

では本日の山部門のメインイベント。
大桑城(古城山)に行きますよ。
当初は桔梗塚から歩いていこうかなとも思ったのですが、道中ただの林道やら県道を歩くのはなんだかと思い。前回の京都篇は山崎から京都までもできる限り京街道を歩くという名目もあったからね。
今回はやっぱし車で移動です。

大桑城に行く前に周辺のスポットだけ押さえます。

六万墓。
2021sPB210115.jpg
道三と頼芸の戦いでの戦死者を集め弔った場所とされています。

千人塚。
2021sPB210116.jpg
こちらも戦死者を弔うために建てられたものらしい。

むむむ。
2021sPB210117.jpg
画像に移っている何かのほうもむしろ気になった。
戦で活躍した頼芸の式神なのか、、、という設定だったら映画やゲームになるな(笑)

四国掘り。
2021sPB210119.jpg
大桑城の最終防衛ラインと思われます。
尾張、伊勢、越前、近江の4つの国の加勢を受けて築いたと伝えられているそうです。
ちなみに先の明智孫十郎は、道三方が築いた四国山城攻めで戦功をあげたそうですよ。
そちらの城の名も四国山城なので、そちらも4国の加勢があってできた城だったりして。四国山城跡は今は四国山香りの森公園となっているそうで、大桑城から大して離れていません。
なのでこの四国掘りは実は道三方が築いた大桑城攻めの最前線の野戦陣地跡だったら面白いなと妄想。
堀の向きが大桑城と反対だから違うか(笑)
四国掘りや四国山城の呼び名も、土岐頼芸側の戦意喪失のためあえて、道三が各国の援軍も従えて攻めてきた、こちら側はこれだけの国に支持されているといったことを示すような策略だったとか。逆もしかりね。これも妄想です(`ω´)グフフ

では大桑城に。
途中の綺麗なトイレに入ろうとすると。
20211122s0111_xlarge - コピー
援軍!?なのか。
この老将軍。地元の歴史研究家の方のようで、名刺もいただきました。
ここではT氏とします。
怪しい福井ナンバーの車が大桑の史跡をめぐっていたのを索敵してたらしい。
まあ今でいう、、、ストーカーか(゚д゚)!
まあそれはいいのですが(笑)
きっと歴史好きな輩と思って声をかけてくれたのでしょう。
大桑城の説明および、T氏の大桑城についての見解を色々お話ししてくれました。
登山口まで道案内をしてくれましたよ。
20211122s0118_xlarge - コピー
ここは登山口より僅かばかりはずれた場所の堀切跡(T氏談)
この堀切は地元教育委員会(たしか)では堀切として扱わず、切通し(道)という判断だそうです。T氏によればそれはありえないとのこと。
地図上では。
2021-11-29 (3) - コピー
赤丸の地点。
昔切通として使われているのでれば、緑→のほうにある林道との通路となるのかな。T氏によれば切通しとてわざわざこれだけのために、この尾根を切らずその上を歩いて横切るはずだとのこと。私の立っている場所の後ろは2mはないくらいの段差になっており、切通としてなら、そうならず道路が繋がるはず。切通の反対が切ったように道が無いのはおかしい。
という見解です。
地元教育委員会他ではここの堀切はスルーされており、特に案内板などはないです。
なるほど~フィールドワークって大事。楽しい。
T氏の説か正しいか、教育委員会が正しいかは別として現地現物を見ることで自ら妄想する楽しさがあります。

T氏とはここでお別れ、色々貴重なお話を聞けて面白かったです。

さあ上りますよ。

この堀切!?部あたりから尾根を直登。その後トラバースなんかも含め、基本尾根を忠実に上っていく感じで山頂を目指します。途中最初に案内のあった堀切!?以外に防御力を発揮する遺構がなく、山頂までの行程の3分の2くらいまでは何もなかった気がする。
大桑城は北面は急峻な感じで基本防御力を発揮する遺構は南面や西面に多い。
北面は岩門のあたり近くまでは何もないと仮定すると、最初の堀切!?はやっぱり切通し!?なんかなとも思う。

伝「岩門」のあたりのいい画像がなかったので残念なのですが、この岩門が一乗谷の巨石を模していると思われ、、大桑城は一乗谷の影響を受けて作られた山城だと言われている根拠の一つなんだとか。なるほど~。

伝岩門を越えたあたりから、堀切や廓なんかがバンバン現れます。直近の調査では天守直下の廓の台所と言われている場所から庭園の跡が見つかったそうです。池の跡もあったらしい。
凡庸(と言われている、あくまで私のイメージ)の土岐頼芸が道三に政務を任せ、ここ大桑を贅沢な別荘や隠居場とし日々のほほんと贅沢の限りを尽くしていたのかもしれない。
それも道三の策略とも気が付かず、、、
という妄想(`ω´)グフフ

ここで。
大桑城はもっと簡単に東側からも上れますが、一応山登りをする身として、健脚コースから上っています。城というより古城山山行という建前がありますんで<(`^´)>
でも遺構をあまなく見ようと思ったら健脚コースからがおすすめですよ。

到着v( ̄Д ̄)v イエイ
2021sPB210129.jpg
二上~文殊山くらいのボリュームはありますよ。
それの少し急登版かなってところ。

殿ぉぉお~~。。
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っていつものノリで(爆)

ミニチュア天守もあるんですよ。
20211122s0132_xlarge - コピー
クライミングの成果を発揮して城攻め一番乗り(笑)
この天守は昔あった大河「国盗り物語」の時にヘリで運んだものらしい。T氏が教えてくれました。

頼芸が逃げたときに、土岐氏家宝の金鶏を隠した井戸も見たしあとは下山するのみ。
時間が押して16時ごろだったこともあり、念のため暗くなってもより安全なように、来た道ではなく、反対のゆるゆる林道周回にて車まで戻ることにしましたよ。
林道なら暗くなってもあまり怖くないしね^^d

が(-_-;)

林道口もどり。
あとは林道をひたすら歩いて駐車場に戻るつもりが、まさかの、、、
ここどこ何!?

全く逆方向に歩いてしまっており、駐車場とは真反対の尾根向こうの県道にてしまった(;´д`)トホホ…

真っ暗よすでに。
暗い林道をまた上って戻るより(さっき暗くなっても林道なら怖くないって言ったじゃんていう突込みは受付不可で)安全な生活道路を歩きましょうよとなりました。
都合12km程のロードが追加されます(涙)

ま、これもありよね。
ゆるゆる歴旅だったので、少し心拍を上げろという天命と常に前しか向かないでおくわ(爆)
暗くても兄さんと一緒だし、楽しいウォーキング一部ランもあり。
20211122sIMG_3263.jpg
いい運動になりました。

〆は山県さくらちゃんと一緒に。
20211122sIMG_3269.jpg
真っ暗な道路で知らない人が見ると怪しい不審者にしか見えないよ、ミツロウ兄さん(汗)

きゃは♪
20211122s0148_xlarge - コピー
まあ。
こんな感じです(笑)
今回もまさかの激しい撤退戦。しかも夜戦を乗り越えた自称明智の残党2名はなんとか漆黒の馬(マイクロスビーね)にまたがり、越前の国に帰還するのであった。

今回も楽しい歴旅。
お付き合いただいたミツロウ兄さんには感謝です。
またツギもよろしくお願いしますm(__)m
ではまた~。
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歴山歩タリング!!光秀公を忍んで 美濃篇 その1

寒さの勢いが一気に加速しましたね。
ラニーニャ爆裂。
12月はもうがっつり雪が積もっているはず!!




さてさて。



すっかりアップは遅くなりましたが、日曜に歴旅を。
お相手をしてくれるお方はもうご存じの通りで。
明智日向守ミツロウ兄さんです(∩´∀`)∩ワーイ20211122sIMG_3273.jpg
山県さくらちゃんとツーショットでご機嫌のミツロウ兄さんと、今回は美濃の国に遠征。
まずは光秀出生より青年期まで在住していた(はず)明智城跡よりスタートです。

今回は明智城跡のある可児市、明智光秀生存説のある山県市を中心に攻めますが、流石にその二つの地域をまとめて徒歩となると時間もないので、ポイントポイントは車で移動です。
まあ、、、
お散歩みたいなもんだな(汗)
なんせ車の移動が多いので、福井発は余裕の5時発です。途中の高速PAにて朝食まで取って余裕のスタートです。この時までは、、、まあその展開については後程。
今回ももれなくミツロウ兄さんから沢山の画像をお借りしておりますm(__)m

まあますば明智城跡の無料駐車場に車を停めて。
光秀産湯の井戸跡を見に行きます。駐車場から徒歩5分くらいかな。
20211122sPB210005.jpg
この目立つ大きな木。ここかと思いきや、、、
ここの案内板によれば、すぐわきを流れる川向う。今は造成してあのあたりといった説明でした。
20211122sPB210007.jpg
画像中央の畑の真ん中あたりだそうで(汗)
こっちの木の傍が良かったと思いましたよw
まあここに井戸があったとして、それが本当に産湯の井戸かは定かではない。あくまで「伝」とありました。

気を取り直し明智城に戻ります。
202121122sPB210002.jpg
テンションが上がる。
実は勝手に明智城は岐阜の垂井のほうにあると思い込んでいました。竹中半兵衛とか西美濃三人衆となんかこんがらがっていたのか!?
それともなんとなく光秀のイメージが越前や京にあるとの思い込みもあるんだろうな。岐阜でもより西側ですぐに越前や京に落ち延びられるという勝手な思い込みか。
後でわかるのですが、越前(福井ね)に行く最短距離は別に岐阜の西側、関ヶ原を抜けるルートではないのに。中山道からの北国脇往還や北国道ではないということだ。
中山道自体、時代的にないかもしれないし、まあ整備されてはいないというだけであるにはあったのだろうけど。

大手門。
2021sPB210012.jpg
ここから桔梗坂を歩くよ。
多分当時はそんな呼び方はしてないだろうけど。

遺構は良く残っていました。詳しくはWikipediaなど参考にしてくださいね。

車止めも桔梗紋。
20211122sPB210016.jpg


麒麟が来るの際に合わせて建てられたものかな。

めちゃめちゃかっこいいい光秀像がありましたよ。
20211122sPB210028.jpg
号泣する末裔(自称笑)二人の怪しいおっさん(爆)

綺麗に整備された歴史公園といった感じでした。のんびりお弁当とか広げたい雰囲気。

搦手には十兵衛坂。
20211122sPB210041.jpg
光秀づくしです。

六親眷属幽魂塔。
20211122sPB210047.jpg
案内板によれば、明智一門の慰霊のものそうです。
この場所に僅かばかり石が見えていたそうで、逆臣とされている光秀を表立って供養することができないためこっそり隠す形にしたものと思われるとのこと。
地元福井の明智神社の「あけっつさま」と通じるものがありますね。

お城跡はこの辺して、ツギに。
明智一族のお墓のある天竜寺。お城のすぐ近くにあります。
日本一大きな明智光秀の位牌が祀られており、大きさは6尺1寸3分で約184cm。明智光秀の命日の6月13日にちなんで作られたそうで、ミツロウ兄さんに教えてもらいました。
それはぜひ見てみたい。
20211122sPB210052.jpg

歴代墓所。
20211122sPB210053.jpg
墓石の代わりかお地蔵さまや観音様的な石仏には漢数字が彫られているものもありました。
越智山なんかであるお地蔵さまの有志の方の設置石仏的なものと同じ!?
あまり考えないでおこう(汗)

日本一の位牌はと。
20211122s0058_xlarge - コピー
まさかの拝観は終了Σ(゚д゚lll)ガーン
お隣は明智光秀愛好家の女性のかた、こんな言い方は今は良くないのかもしれませんが歴女というジャンルの方なのかな。
しかし10年以上前に来たときは位牌見ることができたと言っておられたので、ここ最近の大河からのファンではなく相当な歴史明智ファンの方だと思われます。

位牌については昨今の麒麟が来るブーム、コロナのこともあり当面は拝観中止のような文脈でした。

名残惜しいですがまだまだ今日はいくところがあるので急ぎますよ。
明智城さらばじゃ~。

ツギは。いやその前に。
20211122sIMG_3222.jpg
近くにある林酒造にてお買い物。

兄さんご満悦(爆)
2021sIMG_3220.jpg
光秀を冠した地酒があるんだって。
エア呑みだけにして、おうち帰ってからじっくり堪能してくださいね(笑)

可児才蔵ゆかりのお寺も近くにあるらしい。
可児市なので可児才蔵と関係あるのかななんて呟いたら、ミツロウ兄さんが近くにあるよと。
えっ!?なんでそんなマイナーな武将知っているのと思ったら、なんと可児才蔵は光秀の家臣の時代もあったらしい。全く知りませんでした。
ではいくよ~。

願興寺。
20211122sIMG_3230.jpg
なんと可児才蔵は越前朝倉氏ゆかりの武将だったらしい。
越前で朝倉義景が滅ぼされた際、逃げ出した側室が願興寺にたどり着き後に才蔵を産んだとされているそうです。義景の子ってこと!?光秀は朝倉氏に客分として仕えていたことになっているし、年代時代的に気持ちずれがあるような気がるのですが、あまり深くは考えないところが歴史浪漫です。

願興寺は工事中でお寺そのものはちょっとこの時は入れませんでした。どこかからかはか入れるとは思いますが。
偶然にも御嵩宿(中山道)にあります。
20211122s0067_xlarge.jpg
街道巡りも随時進めていかないとね(汗)

ツギ急ぎます。
少し離れてお次はここ。
20211122sPB210099.jpg
続日本百名城の美濃金山城。
ここは森乱丸で有名な森一族のお城。
ちなみ信長のお気にの小姓として有名な森乱丸の「乱」が一般的に「蘭」と花の名になっているのは、秀吉が信長を貶める、要は男色関係にある変態チックな(当時は男色当たり前で男に興味のない秀吉のほうがマイノリティでしたが)イメージを付けるためなんて説もあります。

森一族は織田信長に仕え、一族全員が献身的に信長を支え続けた忠臣ぞろい。
乱丸の父の可成は言うに及ばず、確かうる覚えなのですが、その正室か母も織田家に対して何か有益な働きをしたような気がする。そのソースが見つからないけど(汗)
そんな森一族の乱丸。信長お気に入りの小姓は光秀に対してつらく当たるようなイメージが現在あると思います。
それは可成最後の地、宇佐山。いまの坂本にあるのですが、ここを領地として所望した乱丸ですが、光秀の領地であったため貰えなかったということも遠因としてあるのかないのか。
また明智城より美濃金山も直線距離で10km20kmほど(適当)くらい?ほんとそんなに遠くない。
地勢的に何らかのかかわり(敵対とか友好的とか)があってもおかしくないよな。
妄想が膨らむのも歴史浪漫なのです。

本丸跡。
20211122sIMG_3231.jpg
20211122sPB210086.jpg
正直ここに来るまで、お城の規模としては明智城くらいかなと思っていたのですが、そんなことはなく相当にでかい。織田家につかえる前からその後ずっと、幾度となく改修増築されていったのであろうその規模は明智城の数倍はあると思われます。

石垣の角石とかしっかり組まれたもの残っておりでかかったです。

20211122sPB210081.jpg
ちゃんと当時の上物の基礎石もしっかりあります。
桝形虎口とかもばっちり。
二の丸、三の丸と大きな廓もあり、じっくり見て回るとかなり時間がかかります。

方角的に岐阜城は中央あたりかな。さすがに目視で天守閣は見えない。
20211122sPB210082.jpg

覚えたてのムーブを駆使して(笑)
20211122s0091_xlarge - コピー
このくらいのガバがあれば流石のワイでも上れる。でもこれが10mとかになるとロープないとビビってへたれるんよね(涙)

こちらは乱丸産湯の井戸。たぶん「伝」ってやつ。
20211122sPB210097.jpg

紅葉がホントキレイでした。
20211122sPB210098.jpg
桜の名所でもあるようです。千本桜凄そうでしたよ。
しっかり整備され、私たち以外にも何名かの方が見学に来られていました。
流石国指定のお城跡ですね。

光秀と乱丸とのエピソードはほんとかどうかは全くもって不明で、なんとなく光秀のキンカン頭(どんな頭や)を乱丸が信長に言われてセンスでぺしぺし叩いたりとか、欄干から足蹴にしたりとか。そんな話を見聞きしたりするけど、流石にそんな露骨にたたいたり蹴ったりはしないと思ってます。
でも信長からの冷たい言葉を、小姓という立場から自然に上から目線で光秀に伝えたりはしたのかもしれませんね。
光秀的には支社長位の立場なのに、たかが社長秘書に偉そうに言われて腹の虫がおさまらんって感じはしたかも。

まあすべて妄想。

ともあれ、美濃金山城は本当にお勧めしたい良き城跡でした。

ではいよいよ次は可児市から舞台を移して山県市にいきます。
続きはまた。
ではでは。


プロフィール

ゲンジ

Author:ゲンジ
夏は好きですが暑いのは嫌い、寒いのはまだ耐えれる方ですが、寒すぎるとダメ、適温の幅が極端に少ないんです。。

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