寒さの勢いが一気に加速しましたね。
ラニーニャ爆裂。
12月はもうがっつり雪が積もっているはず!!
さてさて。
すっかりアップは遅くなりましたが、日曜に歴旅を。
お相手をしてくれるお方はもうご存じの通りで。
明智日向守ミツロウ兄さんです(∩´∀`)∩ワーイ
山県さくらちゃんとツーショットでご機嫌のミツロウ兄さんと、今回は美濃の国に遠征。
まずは光秀出生より青年期まで在住していた(はず)明智城跡よりスタートです。
今回は明智城跡のある可児市、明智光秀生存説のある山県市を中心に攻めますが、流石にその二つの地域をまとめて徒歩となると時間もないので、ポイントポイントは車で移動です。
まあ、、、
お散歩みたいなもんだな(汗)
なんせ車の移動が多いので、福井発は余裕の5時発です。途中の高速PAにて朝食まで取って余裕のスタートです。この時までは、、、まあその展開については後程。
今回ももれなくミツロウ兄さんから沢山の画像をお借りしておりますm(__)m
まあますば明智城跡の無料駐車場に車を停めて。
光秀産湯の井戸跡を見に行きます。駐車場から徒歩5分くらいかな。

この目立つ大きな木。ここかと思いきや、、、
ここの案内板によれば、すぐわきを流れる川向う。今は造成してあのあたりといった説明でした。

画像中央の畑の真ん中あたりだそうで(汗)
こっちの木の傍が良かったと思いましたよw
まあここに井戸があったとして、それが本当に産湯の井戸かは定かではない。あくまで「伝」とありました。
気を取り直し明智城に戻ります。

テンションが上がる。
実は勝手に明智城は岐阜の垂井のほうにあると思い込んでいました。竹中半兵衛とか西美濃三人衆となんかこんがらがっていたのか!?
それともなんとなく光秀のイメージが越前や京にあるとの思い込みもあるんだろうな。岐阜でもより西側ですぐに越前や京に落ち延びられるという勝手な思い込みか。
後でわかるのですが、越前(福井ね)に行く最短距離は別に岐阜の西側、関ヶ原を抜けるルートではないのに。中山道からの北国脇往還や北国道ではないということだ。
中山道自体、時代的にないかもしれないし、まあ整備されてはいないというだけであるにはあったのだろうけど。
大手門。

ここから桔梗坂を歩くよ。
多分当時はそんな呼び方はしてないだろうけど。
遺構は良く残っていました。詳しくは
Wikipediaなど参考にしてくださいね。
車止めも桔梗紋。

麒麟が来るの際に合わせて建てられたものかな。
めちゃめちゃかっこいいい光秀像がありましたよ。

号泣する末裔(自称笑)二人の怪しいおっさん(爆)
綺麗に整備された歴史公園といった感じでした。のんびりお弁当とか広げたい雰囲気。
搦手には十兵衛坂。

光秀づくしです。
六親眷属幽魂塔。

案内板によれば、明智一門の慰霊のものそうです。
この場所に僅かばかり石が見えていたそうで、逆臣とされている光秀を表立って供養することができないためこっそり隠す形にしたものと思われるとのこと。
地元福井の明智神社の「あけっつさま」と通じるものがありますね。
お城跡はこの辺して、ツギに。
明智一族のお墓のある天竜寺。お城のすぐ近くにあります。
日本一大きな明智光秀の位牌が祀られており、大きさは6尺1寸3分で約184cm。明智光秀の命日の6月13日にちなんで作られたそうで、ミツロウ兄さんに教えてもらいました。
それはぜひ見てみたい。

歴代墓所。

墓石の代わりかお地蔵さまや観音様的な石仏には漢数字が彫られているものもありました。
越智山なんかであるお地蔵さまの有志の方の設置石仏的なものと同じ!?
あまり考えないでおこう(汗)
日本一の位牌はと。

まさかの拝観は終了Σ(゚д゚lll)ガーン
お隣は明智光秀愛好家の女性のかた、こんな言い方は今は良くないのかもしれませんが歴女というジャンルの方なのかな。
しかし10年以上前に来たときは位牌見ることができたと言っておられたので、ここ最近の大河からのファンではなく相当な歴史明智ファンの方だと思われます。
位牌については昨今の麒麟が来るブーム、コロナのこともあり当面は拝観中止のような文脈でした。
名残惜しいですがまだまだ今日はいくところがあるので急ぎますよ。
明智城さらばじゃ~。
ツギは。いやその前に。

近くにある林酒造にてお買い物。
兄さんご満悦(爆)

光秀を冠した地酒があるんだって。
エア呑みだけにして、おうち帰ってからじっくり堪能してくださいね(笑)
可児才蔵ゆかりのお寺も近くにあるらしい。
可児市なので可児才蔵と関係あるのかななんて呟いたら、ミツロウ兄さんが近くにあるよと。
えっ!?なんでそんなマイナーな武将知っているのと思ったら、なんと可児才蔵は光秀の家臣の時代もあったらしい。全く知りませんでした。
ではいくよ~。
願興寺。

なんと可児才蔵は越前朝倉氏ゆかりの武将だったらしい。
越前で朝倉義景が滅ぼされた際、逃げ出した側室が願興寺にたどり着き後に才蔵を産んだとされているそうです。義景の子ってこと!?光秀は朝倉氏に客分として仕えていたことになっているし、年代時代的に気持ちずれがあるような気がるのですが、あまり深くは考えないところが歴史浪漫です。
願興寺は工事中でお寺そのものはちょっとこの時は入れませんでした。どこかからかはか入れるとは思いますが。
偶然にも御嵩宿(中山道)にあります。

街道巡りも随時進めていかないとね(汗)
ツギ急ぎます。
少し離れてお次はここ。

続日本百名城の美濃金山城。
ここは森乱丸で有名な森一族のお城。
ちなみ信長のお気にの小姓として有名な森乱丸の「乱」が一般的に「蘭」と花の名になっているのは、秀吉が信長を貶める、要は男色関係にある変態チックな(当時は男色当たり前で男に興味のない秀吉のほうがマイノリティでしたが)イメージを付けるためなんて説もあります。
森一族は織田信長に仕え、一族全員が献身的に信長を支え続けた忠臣ぞろい。
乱丸の父の可成は言うに及ばず、確かうる覚えなのですが、その正室か母も織田家に対して何か有益な働きをしたような気がする。そのソースが見つからないけど(汗)
そんな森一族の乱丸。信長お気に入りの小姓は光秀に対してつらく当たるようなイメージが現在あると思います。
それは可成最後の地、宇佐山。いまの坂本にあるのですが、ここを領地として所望した乱丸ですが、光秀の領地であったため貰えなかったということも遠因としてあるのかないのか。
また明智城より美濃金山も直線距離で10km20kmほど(適当)くらい?ほんとそんなに遠くない。
地勢的に何らかのかかわり(敵対とか友好的とか)があってもおかしくないよな。
妄想が膨らむのも歴史浪漫なのです。
本丸跡。


正直ここに来るまで、お城の規模としては明智城くらいかなと思っていたのですが、そんなことはなく相当にでかい。織田家につかえる前からその後ずっと、幾度となく改修増築されていったのであろうその規模は明智城の数倍はあると思われます。
石垣の角石とかしっかり組まれたもの残っておりでかかったです。

ちゃんと当時の上物の基礎石もしっかりあります。
桝形虎口とかもばっちり。
二の丸、三の丸と大きな廓もあり、じっくり見て回るとかなり時間がかかります。
方角的に岐阜城は中央あたりかな。さすがに目視で天守閣は見えない。

覚えたてのムーブを駆使して(笑)

このくらいのガバがあれば流石のワイでも上れる。でもこれが10mとかになるとロープないとビビってへたれるんよね(涙)
こちらは乱丸産湯の井戸。たぶん「伝」ってやつ。

紅葉がホントキレイでした。

桜の名所でもあるようです。千本桜凄そうでしたよ。
しっかり整備され、私たち以外にも何名かの方が見学に来られていました。
流石国指定のお城跡ですね。
光秀と乱丸とのエピソードはほんとかどうかは全くもって不明で、なんとなく光秀のキンカン頭(どんな頭や)を乱丸が信長に言われてセンスでぺしぺし叩いたりとか、欄干から足蹴にしたりとか。そんな話を見聞きしたりするけど、流石にそんな露骨にたたいたり蹴ったりはしないと思ってます。
でも信長からの冷たい言葉を、小姓という立場から自然に上から目線で光秀に伝えたりはしたのかもしれませんね。
光秀的には支社長位の立場なのに、たかが社長秘書に偉そうに言われて腹の虫がおさまらんって感じはしたかも。
まあすべて妄想。
ともあれ、美濃金山城は本当にお勧めしたい良き城跡でした。
ではいよいよ次は可児市から舞台を移して山県市にいきます。
続きはまた。
ではでは。